2022年08月

七宝焼きとは

弊社の七宝焼き、東京七宝とは江戸時代中期朝鮮から渡来した人物に、当時徳川幕府お抱えの彫金師であった平田道仁が七宝を習い泥七宝が主流で有った時代に透明感のある緑色のを用いた刀の鍔を作りました。

この刀の鍔は緑色に透明感があり、当時としてはとても貴重な作品でした。このような技法を持った平田家はその技術を門外不出としていました。明治初期に平田彦四郎7代目の当主が日本政府の依頼を受け日本の勲章を作る為フランスに渡り新しい技法身に着けました。それは機械を用いて型を作りそこに七宝を入れることを学び、日本の大勲位菊花大綬章を製作しました。

 

平田家はこの勲章制作を多く作ることになり弟子を取り、また地金を機械で作る技法を外国人商人が日本人に教えた。このことが、メタル七宝と呼ばれる地金を機械で作る方法の復旧に拍車をかけた。このメタル七宝はいろいろなジャンルに応用され例えば家電メーカー作る洗濯機、冷蔵庫などに取り付けるロゴなど企業の社章あるいは学校などの襟章、校章などいろいろな物に七宝が取り入れられました。弊社は父の代から七宝焼きを営んでいますが、昭和30年~昭和50年代このころが七宝焼きが非常に盛んな時代でした。

 

 

1964年に制作した東京オリンピックの七宝焼きです。

左はオリンピックガイドの方が使うピンバッチです。

この時期私はまだ小学生で制作は父と弊社の職人が担当していました。この当時東京七宝工業協同組合は最盛期で会員が64件と多くまた会員以外にも多くの七宝焼きの職人がおりました。その頃は製作のスピードを競うのが主流で商品の美しさは少し置いて行かれました。

私が、父の後を継ぎ七宝焼きの職人になったのは23歳の時でした。もちろん父の仕事は小学生の時からおこずかい稼ぎでてっだつていました。私は高校を出てすぐに家の仕事を手伝う予定でした。  

父がこれから先の時代は大学に行ってから家業を継ぐのもいいのではないかと進めてもらい進学することにしました、一浪しましたが大学に入りそのことが結果的に良かったとも持っています。七宝焼き修行は最初は釉薬に盛り込みいかに早く最適に釉薬を地金に置いてゆけるかが鍵の作業です。私は当時一緒に働いていた職人より2年後には正確に盛り込みを出来るようになりました。私が釉薬を盛り込むと気泡が出来ない盛り込みになります。通常釉薬は境界線より少し盛り上げて入れる為どうしても高く盛ることが多くなります。一度に多く盛り上げると気泡の原因になるのです。穴が開けば穴に色を差し塞いで焼き上げる手間が生じます。私が七宝製作をする前に父たちの制作していた七宝焼きの一部を紹介します。非常に多くの種類七宝を作っていました。

少し斜めでは有りますが、企業のエンブレム、観光地のバッチ、輸出用のピンズ、学校の校章など多岐に渡り七宝を製作していました。これらの品物は商品のほんの一部で有り社章、エンブレム、校章、記念バッチ、アクセサリー、色の入る物は殆ど七宝が使われていた時代です。

アクセサリーは私が家で働き始めた頃が最盛期でした。婦人物のアクセサリーから始まり紳士物のアクセサリーまで多くの作品を作りました。その一部には下記のようなものが有りました。これは私が直接研磨し仕上げたものです。品物には金メッキが付されています。

 

 

 

 

当時のメッキ加工技術は現在より上手だった気がします。私が20代で作った商品が今もあまり変わりなく我が家に置いてあります。多くの七宝作品があったことでデパートで販売される作品はその中でも優れたものといえます。この作品は上野松坂屋1階のアクセサリー売り場で販売されていました。当時このタイプのアクセサリーは東京七宝工業協同組合の中で弊社ともう一社で制作したものが大部分を占めました。

 

 

 

 

 

また父たちが作った品物には多様なニーズ似答えて下のような商品も作っています。下の商品の中でBMWのマークが有りますが、これは私が製作に携わった物です。他の品物は父や弊社の職人による品物です。

BMWはキーホルダーとして作られました。革に七宝の商品を付けてキーホルダーにしました。色々な品物を作りましたが、当時は自社でデザインを作る訳ではなく予め出来ている物に色を入れるそのような時代で自社の作品と呼べるものは有りませんでした。私が家業を継いで自社の作品を作るようになったのは平成に入ってからです。昭和63年に父が亡くなり、その後結婚し当時相対的に七宝の仕事が少なくなりました。その時出来れば自社の作品を作ってみたいと思うようになりました。父が亡くなった翌年トヨタの車でソアラのエンブレムを受注しそれから数年忙しい時期が続きました。弊社が七宝をは多岐に渡り昭和50年から60年当時は紳士のアクセサリーを多く作りました。ほとんどがブランドのタイ留めカフスです。

左はクレージュの紳士アクセサリーですが、当時サンローラン、バーバリーなどのアクセサリーを沢山作りました。しかし平成に入ると地球温暖化の為か夏はノーネクタイになりスーツを着て働く場所が減り普段着で通える職場が増えました。そのため紳士服のアクセサリーを販売は少なくなり問屋が無くなったこともありました。紳士服関連のアクセサリーが減少し弊社もスタイルを変える時期が来ました。そんな折三井商船から豪華客船で富士丸で販売する商品の依頼を受けました。柳原良平さんのデザインした富士丸のタイ留めカフスを作ることになります。その商品は初めて弊社で型を作り三井商船へ直接入れることになります。

 

 

 

 

その作品が下の画像です。

 

 

左が、日本丸 右が富士丸 左下が日本丸の船体が釉薬の下に沈んで見える技法、これは東京七宝の特長のひとつです。尾張七宝七宝や京七宝にはない技法です。

東京七宝工業協同組合はこの当時まだ東京の伝統工芸にはなっていませんでした。東京の伝統工芸に至る過程と弊社の今後は次の機会に紹介したいと思います。

この時期はまだ七宝焼きの注文は多くあった時期で組合員も35名ほどいました。では次回東京の伝統工芸(東京七宝)と今後などを紹介したいと思います。

店主

 

 

七宝焼きについて

本日、室町テラス日本百貨店にて実演を行いました。私が作る七宝焼きはその場で完成できないので、最終的な仕上げ方法をお客様に説明しました。

お客様の反応はそんなに手間が掛かるのですかといわれる方が殆どでした。意外と七宝焼きがその場で完成できると思われる方が多いです。

七宝焼きの体験は多くはその場で持ち帰り可能な物が多いからだと思われます。

尾張七宝の花瓶など体験は殆どできません。作るのに大変な時間と大きな電気炉必要となり研磨機などの利用もあります。

七宝焼きのおおもとの体験は難しいと思われます。七宝焼きの体験はほんのさわりの部分に限られます。

地金に色を付けるだけの所が多いでしょう。少し良く体験してもらうには体験者に七宝の焼成もしてもらわないといけません。

ただ初めて七宝焼きを体験される方は焼成をまで体験する方は少ないようです。焼成は時に焼きすぎという失敗することが有ります。

焼きすぎをするとその作品は使い物になりません。やり名をしを余儀なくすることになります。

最終的に東京七宝はメッキ加工という段階を取りますので色々な意味でその場で持ち帰ることは難しいです。

ただ七宝焼きを楽しむには体験者に焼成の部分も入れると良いと思います。